池波正太郎の風景(鬼平犯科帳)(その7)御田(三田)八幡宮

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芝・田町七丁目の往還の西側に、三田八幡宮(みたはちまんぐう)がある。この神社は三田の総鎮守(そうちんじゅ)であって、草創(そうそう)は寛仁年かというから、まことに古い。
物の本に、
「・・・・ 此地(このち)、後(うし)ろは山林にして前は東海(とうかい)にのぞむ。ゆえに風光秀美(しゅうび)なり」
と、ある。
拝殿(はいでん)の正面に三十余段の石段があり、これを下ると広場になってい、中央には大鳥居。外へ出ると街道に面して、左右に茶店が軒をつらねている。
稲荷の金太郎は、その茶店の一つの、大黒屋(だいこく)というのへ入って行った。(鬼平犯科帳16「見張りの糸)

  御田八幡神社は、港区三田にある八幡神社である。御田八幡神社は、和銅2年(709)8月に創建した「武蔵国荏原郡御田郷 薭田八幡」に比定されるとも、寛仁年間(1017-1020)に創建したともいいます。(薭田八幡神社は、大田区蒲田薭田神社も比定されています)古くは窪三田にあったものの、正保年間(1645-1648)当地へ移転、明治2年に薭田八幡、明治7年に三田八幡、明治30年御田八幡と改称したといいます。太平洋戦争終戦まで郷社に列格していました。
港区三田3-7-16

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池上正太郎「東京の情景」(その2)最後の都電(雑司ヶ谷付近)

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 都電は、いま、早稲田から三ノ輪までの(荒川線)一つになってしまった。
 東京という都会にとって、都電が消えたことは大きな、深い意味を持っている。
 都電は、都民にとって、メカニズム化する都会の凶暴な車輪の群れに対する一つの防波堤だった。
いまの東京の、むかしのままの路線に都電が走っていたら、どんなにすばらしい都会になっていたろう。

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池波正太郎の風景(鬼平犯科帳)(その7)宜雲寺(一蝶寺)

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 文五郎が切れこんだ後から道へ曲がって行った男の姿勢には、気迫(きはく)と迫力(はくりょく)がみなぎっていた。
道の突当りが、宣雲寺の裏門である。
 この道には、あまり人通りがない。
 旅僧姿の平蔵が道を曲がったとき、宜雲寺・裏門前を左へ切れた中年の町人の後姿が見えた。
平蔵は走った。(鬼平犯科帳9 「雨引の文五郎」)

 臨済宗妙心寺派の宜雲寺(ぎうんじ)は、元禄七年(1695)見性院融峰宗和居士を開祖として創建。
 江戸時代の有名な絵師 英一蝶が寄寓していたことから通称一蝶寺と呼ばれている。
江東区白河2−7−10

 

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文学のある風景(その28)人形町「玉ひで」

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 「向う角の瀬戸物屋だった店が佃煮屋になっている。鳥屋の玉ひでがそこの二階で営業していると聞いていたが、今はその角を西へ曲って、大体昔の位置に近い所に引っ越している……いまもある玉ひでは私の家から東へ1,2軒目の所にあって、おいしいかしわ屋だったので食べに行ったことはないが始終取り寄せて食べた……。」(谷崎潤一郎の「ふるさと」)

 「玉ひで」は宝暦10年(1760)創業の親子どんぶりが人気の鳥料理店である。親子丼で行列のできるお店で有名。
    東京都中央区日本橋人形町1-17-10

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池上正太郎「東京の情景」(その2)上野山内・東照宮

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私が幼・小年時代を過ごした家は、浅草へ十五分、上野へ十五分という地点にあった。
子供の私にとって、浅草と上野は日々の生活のすべてだった。・・・・
小学校から帰ってくると、宿題もほうり出したまま、私は友だちと上野の山へ行った。
夕食後に、出かけることも少なくなかった。
そのころの上野山の、ことに東照宮の北側から徳川氏の廟のあたりにかけての深い樹木に包まれた夜の道は、子供の私にとって、まことに神秘的なものだった。(池上正太郎「東京の情景」上野山内・東照宮)

 

上野東照宮(うえのとうしょうぐう)は、寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建。東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
所在地 東京都台東区上野公園9-88

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文学のある風景(その28) 茶の木稲荷

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 市ヶ谷八幡の門前には水茶屋が十数軒、いずれもよし葭簀(よしず)張りで、堀に向かって並んでいる。
 茶の木稲荷は石段を上った鳥居の左手にあった。
 手洗い所で口をそそぎ、身を清めて御堂に行くと、白衣の行者がいて、るいの生年月日を訊ね、やがて御祈祷をしてくれた。(平岩弓枝「牡丹屋敷の人々 一」)

茶ノ木稲荷神社は、市谷八幡宮の境内、石段左、中段にある。一千年余りの昔、弘法大師が開山したとされている。商売繁昌、衣食住安泰、芸事向上、 特に眼病の平癒で有名。

東京都新宿区市谷八幡町15

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池上正太郎「東京の情景」 築地・聖路加病院

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        築地・聖路加病院

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 繁華、喧騒の銀座街頭から、ほんの一跨ぎの築地界隈には、戦火をまぬがれた、昔の民家が清らかに残っていて、車輌の響(とよ)みもない。
 マンションやビルも程よく建ちならび、緑も深い。
 夕暮れどきに、このあたりを歩いていると、そこはかとなく、明治のころの外国人の居留地だった面影も匂ってくる。
 聖路加病院も、こうした環境ゆえに美しい。明治三十年代にアメリカ聖公会のトイスラーが創立した、この総合病院で,私の亡師・長谷川伸は息を引とった。

 所在地 東京都中央区明石町9番1号

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池波正太郎の風景(鬼平犯科帳)(その7) 神楽坂の毘沙門さま

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五郎蔵は見張りと尾行の経過を報告し、
「日野の銀太郎は、神楽坂(がくらざか)の毘沙門横町(びしゃもんよこちょう)にある、池田屋という薬種(やくしゅ)屋へ入って行きましてございます。ところが長谷川様、おどろくじゃあございませんか」
「どうした?」
「私が毘沙門さまの境内から見張っておりますと、その薬種屋の番頭らしいのが出てまいりまして、客に対応するのが見えました。その番頭の顔に見おぼえがございました」
「盗賊か?」
「はい。むかし、私の盗めを二度ほど手つだったことがある平の音吉という男なので・・・・・」(鬼平犯科帳21「春の淡雪

「神楽坂の毘沙門」は、東京都新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院である善国寺(ぜんこくじ)の通称である。


所在地 東京都新宿区神楽坂5-36

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文学のある風景(その28)飛木稲荷

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地蔵橋という古い木の橋を私たちは渡って、向う側の狭い横町へはいって往った。すぐもうそこには左がわに飛木稲荷(とびきいなり)の枯れて葉を失った銀杏(いちょう)の古木が空にそびえ立っている。(堀辰雄「花を持てる女」)

飛木稲荷神社は、墨田区押上にある稲荷神社。飛木稲荷神社の創建年代は不詳であるが、鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れてこの地に転住し、稲荷大明神を応仁2年(1468)勧請したといわれている。暴風雨の際にイチョウの枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にかすくすくとそびえたという言い伝えから飛木稲荷神社と命名されたとされる。
所在 墨田区押上2-39-6

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池上正太郎「東京の情景」 芝・増上寺

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       芝増上寺(池波正太郎画)

昭和三十二年の夏、私は新国劇の作者・演出家として、井上靖原作「風林火山」を脚色し、増上寺の広間を借りて稽古をしたことがある。・・・・・
それにしても、そのころの増上寺の緑の深さは、今、想像もつくまい。(池波正太郎 東京の情景芝増上寺)

増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。
所在地
東京都港区芝公園四丁目7番35号

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