文学のある風景(その7) 太宰治「ダス・ゲマイネ一 幻燈」)

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       ライオンビヤホール銀座七丁目店

 昨年の晩秋、ヨオゼフ・シゲティというブダペスト生れのヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気であった。・・・(中略)
 日比谷公会堂での三度目の辱かしめられた演奏会がおわった夜、馬場は銀座のある名高いビヤホオルの奥隅の鉢の木の蔭(かげ)に、シゲティの赤い大きな禿頭(はげあたま)を見つけた。馬場は躊躇せず、その報いられなかった世界的な名手がことさらに平気を装うて薄笑いしながらビイルを舐(な)めているテエブルのすぐ隣りのテエブルに、つかつか歩み寄っていって坐った。
(太宰治「ダス・ゲマイネ一幻燈」)

 
 「銀座のある名高いビヤホール」は、銀座7丁目の中央通り沿いにある1934年創業のライオンビヤホールと思われる。

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面白風景(その2) 屋根の上の怪鳥

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ふと空を見上げると屋根の上に奇妙な鳥がとまっていた。

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モダン都市東京風景(その1) 新東京百景 逸見亨 神楽坂

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 神楽坂は東京都新宿区にある坂で大正時代花街として栄え、関東大震災以後は、坂を滑らないようにギザギザをつけた全面舗装道路にし夕方から午後10時まで車馬通行止めにするなどして人々が安全に通れるようにした。その結果日本橋・銀座方面から商人が流入し、夜店が盛んになった。

 逸見亨の「神楽坂」は、その頃の風景を描いている。

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 逸見亨 新東京百景 神楽坂(1929)

 逸見亨は1895年(明治28年)生まれ和歌山県出身の版画家。
 ライオン歯磨意匠部につとめるかたわら木版画をはじめ,1919年(大正8年)第1回日本創作版画協会展に入選。日本版画協会でも活躍した。「新東京百景」を分担制作。
1944年(昭和19年)死去。50歳。

  現在は当時の風景とは変わってきているが人の賑わいは変わらない。


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文学のある風景(その6) 野田宇太郎 東京文学散歩「日比谷界隈 小音楽堂」

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 松本楼からやや東寄り北側の旧運動場を前にした小高い丘に音楽堂が造られたのは明治三十八年(一九〇五)、当時の建築費は四千九百八十七円である。八月一日に開堂式と陸海軍軍楽隊の発演奏が行われ、その後は毎年四月から十一月まで陸海交互に演奏して市民の人気をあつめ、それがわが国に於ける西洋音楽の普及に大きく貢献したのから、今昔の感が深い。その音楽を聞くのも松本楼に張出していたバルコニーからがもっとも情緒的であったという。(野田宇太郎東京文学散歩「日比谷界隈」)

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明治時代末から大正時代初期の日比谷公園野外音楽堂
             (手彩色絵葉書)

 

 日比谷の小音楽堂は1905年に建てられた日本最古の野外音楽堂である。
 大正12年(1928)には雲形池の北側に大音楽堂が建設された。
 音楽堂前の大噴水は当初なかったが、昭和36年に造られた。

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広重のある風景(その8) 名所江戸百景鉄砲洲築地門跡

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             築地本願寺

 広重の「名所江戸百景」「鉄砲洲築地門跡」は佃島の南の海上から江戸湊(東京湾)越しに当時の和風建築の築地本願寺を望んだ図である。手前は江戸有数の漁場、江戸湊である。

 船で江戸に運ばれてきた物資は鉄砲洲の沖で川船に積み替えられ、掘割を通って市中に配送された。

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  名所江戸百景鉄砲洲築地門跡

 現在のインド風建築様式建物の築地本願寺は昭和9年に建設された。





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モダン都市東京風景(その1) 新東京百景 平塚運一  赤坂離宮

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     赤坂迎賓館(旧赤坂離宮)

 平塚運一は1895年(明治28年)生まれ、島根県松江市出身。
 1916年(大正5年)、二科展に版画作品が入選、日本美術院展には油彩作品と水彩画作品が入選した。
 1927年(昭和2年)から棟方志功を指導し、1928年(昭和3年)には棟方や畦地梅太郎とともに雑誌『版』を創刊。1930年(昭和5年)には国画会の会員となった。
1997年(平成9年)102歳で死去。

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 平塚運一  新東京百景 赤坂離宮(1929)

 赤坂迎賓館(旧赤坂離宮)の建物は、東宮御所として1909年(明治42年)鹿鳴館などを設計した建築家ジョサイア・コンドルの弟子にあたる宮廷建築家片山東熊の設計により元紀州藩の屋敷跡に建設された。

 第二次世界大戦後、赤坂離宮は皇室から国に移管され、国立国会図書館(1948–61年)、法務庁法制意見長官官邸(1948–60年)、などに使用されていたが1962年(昭和37年)に当時の総理池田勇人の発意によって新たに迎賓施設を整備する方針が閣議決定され現在に至っている。




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文学のある風景(その6) 北原白秋 聖路加国際病院

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 鈴鳴らす路加病院の遅ざくら

              春もいましかをはりなるらむ

                                 (北原白秋)

 聖路加国際病院1902年(明治35年)創立。東京都中央区明石町に所在。

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面白風景(その2) 蔵前橋の欄干

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 昭和25年1月蔵前橋のたもとに蔵前仮設国技館が開設され、大関千代の山が、12勝3敗で優勝した。

 それから35年間、昭和59年両国国技館が出来るまで蔵前は大相撲のメッカであった。

 橋の欄干に作られているお相撲さんの飾りは、当時を偲ばせる。

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モダン都市東京風景(その1) 新東京百景 深沢策一 清洲橋

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 深沢策一は1895年(明治28年)生まれ、新潟県出身。
 大正元年家族で上京、小説家を志したが、大正10年に諏訪兼紀と出会い、版画の手ほどきを受けて木版の道に入る。
 大正11年の日本創作版画協会第4回展に初入選、 代表作に≪新東京百景≫があるが、この連作の発案者が深沢であった。 1947年(昭和22年)死去。享年52歳。 

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   深沢策一 新東京百景 清洲橋(1930)

 清洲橋は、隅田川にかかる橋で、「清洲橋通り」が通っている。
 関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。竣工 1914年(昭和3年)3月

 当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしている。

 2007年(平成19年)に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。
 

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文学のある風景(その6) 芥川龍之介「ひょとっこ」吾妻橋の欄干

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 ―吾妻橋(あずまばし)の欄干によって、人が大ぜい立っている。時々巡査が来て小言(こごと)を云うが、すぐまた元のように人山(ひとやま)が出来てしまう。皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立っているのである。 
船は川下から、一二艘(そう)ずつ、引き潮の川を上って来る。大抵は伝馬(てんま)に帆木綿(ほもめん)の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、舳(みよし)には、旗を立てたり古風な幟《のぼり》を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔っているらしい。幕の間から、お揃いの手拭を、吉原(よしわら)かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳(けん)をうっているのが見える。首をふりながら、苦しそうに何か唄っているのが見える。それが橋の上にいる人間から見ると、滑稽(こっけい)としか思われない。お囃子(はやし)をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあっ」と云う哂(わら)い声が起る。中には「莫迦(ばか)」と云う声も聞える。―

 (芥川龍之介「ひょとっこ」)

 その日も墨田堤の桜は満開で沢山の花見船が繰り出していて、それを見物する人で吾妻橋の上はいっぱいであった。

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